4月1日から4泊5日のスケジュールで、宮城県と福島県に行ってきた。
4月1日、地震から3週間たったこの日、仙台市太白区のCILたすけっとを訪問した。東北道は多少の凸凹はあったが復旧しており、八王子から5時間程度で到着した。
出迎えてくれたスタッフの笑顔にほっとしつつ、割れた自動ドアに地震当時の怖さを感じた。さっそく乗り付けたトラックの荷台から布団や経口栄養剤などの物資とヘルパーの足にと寄付された原付を降ろす。事務所に入り、暖かいせんべい汁をご馳走になりながら、この3週間の話しを聞いた。スタッフは無事であること、市内のライフラインはほぼ復旧し日常生活は営めること、今後近くの市所有地に仮設住宅ができるだろうから介助派遣で支援していくことなど。
4月2日、多賀城市と石巻市の避難所を訪問した。
「やるべき事は、現場を見たらわかる」という佐野さん(ぽてとファーム)の言葉通り、避難所は多くの問題を抱えていた。
多賀城市文化センターは避難者で足の踏み場はなく、むっとする空気で溢れている。和室に入室できた人やロビーのソファーが使えた人はまだ良いが、多くは堅いタイル敷きの廊下にダンボールとせんべい布団を敷いて寝起きをしている。一目で、高齢者や障害者が長期生活ができるような環境ではないとわかる。畳やソファーなどは、高齢者・要介護者の優先使用などの配慮はあったのだろうか。
タイル敷きの廊下の片隅で、ダンボールの上に敷かれた布団がシワ一つ無くきれいに折りたたまれている光景に目を奪われた。辛い避難生活の中にありながら、身の回りのものを整える事を忘れない心遣いが、とても痛々しく、胸がしめつけられた。
避難所生活の壮絶さを初めて目にして言葉もなく、ただ石巻市へトラックを走らせた。津波被害にあった石巻市立病院の患者が避難しているという遊楽館(ゆうがくかん)を目指す。ここはスポーツ施設で、体育館がある。体育館に150~160人の患者がきれいに並べられている(言葉通り、並べられている)のだが、ついたては一切無い。説明によると看護師やヘルパー等の人手が足りず、ついたてがあると患者の急変に対応出来ないからだ、という。
人手不足を解消するために、近所の中学生がボランティアで手伝いに来ており、布団の間を歩き回りながら、患者が手を挙げたら看護師を呼ぶ役割を担っていた。ついたてがないと言うことはプライバシーが無い。オムツの交換が必要な患者は、その場で布団をはぎ取られ、下半身を露わにされてオムツ交換となる。それが、中学生の目の前で行われている。
4月3日、福島県に移動し、福島市、南相馬市、郡山市を訪問。
福島市ではILセンター福島の中手さんと設楽さんを訪ねた。マスコミ報道でも知られているが、福島市は第一原発から30km圏外であるが放射線の測定数値はきわめて高い。中手さんの話しでは、殆どの家庭で子供を他県の親類縁者の所へ避難させていると言う。
「今後、福島県出身だというだけで結婚できない、という福島差別が起こるだろう」
という言葉に、福島の人達が抱える恐怖を垣間見た。
114号線を東へ走り、南相馬市に入る。街は閑散とし、商店は閉まり、人気が無い。とりあえず、と市役所へ行く。日曜日にもかかわらず多くの市民が住民課を訪れていた。転居届を出しているのだろう、と思った。
ボランティアの受付は社会福祉協議会へ、という張り紙を頼りに社協へ。ここは救援物資の受け付け場所にもなっていた。トラックのナンバーが八王子なので気になった、という男性が話しかけてきた。この男性も八王子からボランティア活動を行うために来たという。
男性によると、この物資受付所で10名程度が活動しているが、南相馬市の人は1人だけで、他はボランティアらしい。物資倉庫となっている講堂の中を見せてもらうと、私設の倉庫程度の物資しかなかった。これで現在市内に残っている2万人の市民を支えるのは無理があるだろうと思った。
話しを聞くと理由は原発だ。隣の相馬市なら行ってくれるドライバーはいても、南相馬市へと言うと一様に断わられるらしい。そこで、現在はボランティア達が相馬市の倉庫へ物資を分けてもらいに行っていると言う。
海岸へ向かい、津波被災地を見た。家も田畑も、道路のアスファルトも、高圧電線の鉄塔までも流されてしまった現場で、ゴルフクラブを手に泥の中を歩く住民の姿があった。津波から3週間、毎日何かを探し歩いているのだろう。涙があふれた。
郡山市へ向かう道中、浪江町へと続く道路が警察車両によって封鎖されているのを見た。
オフィスILを訪問。
4月4日、いわき市と田村市を訪問。
原発から20km圏内の川内町等の人々が避難しているビッグパレットふくしまを訪問。1万人ほどの人が避難生活をしているという。施設内には、人目や寒さを防ぐためダンボールで作った小屋が建ち並ぶ。工夫を凝らした生活に、長い期間ここで寝起きしていることが読み取れる。
ここで不思議に思うことが2つあった。一つは障害者の姿を全く見かけないと言うこと。人口の8~10%が障害者であるということからすると、800~1000人程度の障害者がいてもおかしくないのだが。もう一つは、介護が必要な方のスペース、と張り紙がされている場所が2階にあると言うこと。エレベーター前もダンボールハウスで埋め尽くされ、エレベーターが機能していないことが推測できるのだが、どうやって要介護者が2階へ移動するのか、不思議である。
日のある内に被災地を見ておきたくて、いわき市へと急いだ。途中雪が降ってきた。
いわき市もライフラインが復旧しつつあり、街には部活帰りと思われる自転車通学の学生が集団で走っていた。CILいわきには連絡もなく訪ねてしまったが、長谷川さんが快く出迎えてくださった。CILいわきは現在新宿区の戸山サンライズに避難している。しかし、集団避難も時間的に限界があると言う。
曰く、事業を中断している間に一度はなれたヘルパーは二度と戻ってこない、という不安がある。なるべく早く戻り事業を再開しないと、今後の障害者の生活が保障できなくなる、と言葉を続ける。
原発の怖さは常に念頭に置きつつの事業運営となる。いざとなれば150人規模で集団避難できるルートと避難先を確保しなくては、と言う。しかし、いわき市全土が避難勧告が出ると言うことは、福島市も郡山市も同様であり、100万人が避難するということになる。それをどこで受入れるのだろうか。
その時点でも東京が全く原発被害を受けていないわけではないだろうし。
夕方、田村市に鈴木夫妻を訪ねた。
農家は土地を本当に大切にしてきたんです。手を掛けて可愛がれば、土地は応えてくれる。猫の額ほどの土地でも、他人の手に渡らないようにするために近しい親類縁者と結婚して、そうまでして守り抜いて来た。それを手放すのはどんなに辛いか。放射能に汚染された土地でも、見た目には全くわからない。それが悔しい。色が付いていたり、臭いがしたりしてくれれば、あきらめもつくのだけど。
鈴木(き)さんが、涙ながらに話してくれた。
言葉につまる妻にかわって、微笑みながら言葉をつなぐ鈴木(た)さんの
「福島は貧しいところなんです。日の当る土地は田畑にし、自らは日陰に住むんです。」
という言葉が、深く胸に突き刺さった。
多くの介護派遣事業所も被災し、利用者の安否確認が進んでいない。現在仙台と郡山に現地拠点を設置し、その作業にあたっている。
今後、仮設住宅のバリアフリー化、介助派遣の人材確保、ヘルパー講座の講師派遣、被災者の心のケア、ピアカウンセラーの派遣、原発被災者の避難場所の確保、などなど思いつく課題は沢山ある。
ひとつひとつ、しかし早急に進めていきたい。
(安達)