被災地…救援…わたし…(被災地を訪ねて) その2

2日目(5月13日)  津波の後…南相馬

参加者の皆さんには「はじめまして」の私でしたが、昨夜の懇親会で少しずつ距離が近 づいた感じです。

まずは、午前中 「あいえるの会」訪問
たいむILは、もと酒屋だったというのですが、すてきな建物でした。
挽きたてのコーヒーの香りがいっぱいで、おいしくいただきました。



施設見学とお話 宮下さん
○ あいえるの会のこれまで
   1993年 開設
   1997年 全国障害者市民フォーラムin福島の開催を機に組織が拡充された
   その後 特定非営利活動法人となり、自立支援法の居宅介護事業・移動支援事業を開始し、
   事業が大きく膨らんできた。
  ○ あいえるの会のこれから
   組織が大きくなった活動をどう展開していくのか。
   運営主体となる当事者を若い世代に引き継ぐには。

次は、福島市を通って、国道115号 399号の山あいの道を南相馬へ
途中 飯舘村の標識が見えると、ちょっと緊張感。
  手持ちのガイガーカウンターの針が5マイクロシーベルトに上がり、
  今までにない高い数値を示しました。

そして 南相馬の海岸通りへ
新聞やテレビでみたあの惨状が目の前に迫ってきた。

 ここは20キロ圏内に近い海岸沿い
 見渡す限り、なにもない荒地 人の影もない
 ちょっとした高台から海が見える。 この高さが生死を分けた
 本当なら、ここからは家々や木々で海なんかみえないはず
 目の前には歩けないお年寄りが命を落とした老人ホームが、荒れ果てた姿をさらけ出している。
 ホームの職員がここにつかまり、流されそうな方の手を握っていたところだと知らされる
 その光景が思わず目に浮かぶ
 遠くに折れ曲がった原町火力発電所の搭がかすんでいる

 漁師町のあと
 残っているのは家の土台だけ 瓦礫もない。
 ここは玄関だったろう きっとお風呂場だったろう
 道には人たちの往来があっただろう 砂ぼこリが舞い上がる
 死傷者の発見された場所に記された赤い丸印の看板
 探さずともすぐに見つかる
 低地には海水がひたひたと波立っている
 漁業組合の建物のコンクリートの階段のみが横倒しになって残されている。
 がらんとした 音のない世界がただ広がっていた

それから、「ディさぽーと ぴーなっつ」訪問
 
青田さんのお話
  • ここは 地震・津波・原発事故そして風評被害が重なり合っている
   避難指示で、7万人の人口が1万人に
   残った1万人は自己責任で残った事になっているが、
   自己責任とは要するに避難できなかった人達である。
   (病人・老人・障がい者そして彼らを抱えている者)
  • 目の前の事に追われ、避難する強い気持ちのないままに結局残ることに(と語っていたが)
   青田さんとピーナッツの何人かの職員
   取り残された人たちとの遭遇

  • 居続けたことでみえたこと

   残された町の中で、食料がなくなる・薬がなくなる・ガソリンがなくなる不安
   コンビニの明かりがついたときに町の息遣いを感じたこと
   自己責任ではない、被災弱者だ
   支援に駆けつけてくれた方々が見えて、孤立していないとの思い

  • これからも居続けるだろう。
   町は戻ってくる人たちで4万人に回復したが、原発の状況次第である。
   早く復興に向けて動き出したい。



穏やかに語る青田さんのことばには、心響くものがあり、今でもあのお顔が浮かんできます

私のメモから
  • まだ被災状況が進行形だ
  • ここでも自己責任か、お上の言うとおりにできないものに対する切り捨てではないか
  • つながることの大切さ。(きてよかった)

さらに、北へ向かう。途中の道路は地震の影響でアップダウンが何箇所もありました。工事中のコーンや標識も多く、被災地をまたまた実感。車中から見えた閉店中の店やレストラン、灯りのついていた葬議場が…。

最後は 「ドリームゲート」訪問
     あたりが真っ暗な8時半過ぎの到着にも関わらず、皆さんの歓迎をうけました。

~~~つづく
 救援本部
  高木