被災地…救援…わたし…(被災地を訪ねて) その4

最後の4日目  ことばを失う気仙沼・陸前高田

仙台から東北自動車道に入り、一関から国道284号 またまた山あいの道を気仙沼へ

気仙沼は湾のすぐ近くまで高台が迫っていることもあり、
車が坂道にかかると傾いた家や1階が空っぽの家々がだんだんと多くなる。
港に着くと、そこには見上げるような大きな船がコンクリートの岸壁に打ち上げられている。
1隻は、飲食屋らしき民家にぶつかり、そこで傾いている。
報道写真の風景、そのままだ。
遊覧船の船着場も漁船の船着場も地震で崩れており、海水がひたひたと漂っている。
湾の向こう側には、焼け焦げた漁船が何隻もみえる。 あの時、火災が起こったところだ。

湾の反対側にまわると、ここはさらにすざまじい。
魚の加工工場、鉄骨が幾重にも折れ曲がり、コンクリートがむき出しである。
保存されていた冷凍の魚が全滅したそうな。
クレーンシャが動いている。
「災害派遣」の自衛隊のジープもみえる。
腕に江戸川区と書かれた腕章をつけた一団が通りすぎる。
市役所に応援に来ている方たちだろう。
港町・漁師町の面影がのこるものの、この町が再び動き始めることを祈るばかりだ。
昼食の場を見つけながらも、その場が見当たらないまま今度は陸前高田市へ

ここは気仙沼に比べ、海に沿って広い平地がひろがっていたようだ。
そのためか、本当にただただがれきが続く。
がれきの中を車でどのくらい走っただろうか。
それでもまだがれきが続く。
道の駅「陸前高田」で昼食との連絡で、そこを探すがまったく影も形もない。
道も破損して、迂回路が作られている。
まるでゴーストタウン。
がれきや泥を片付けるボランティアの一行が歩いている。
通行止めの前には警備の人が
でも、町の人たちのすがたはみえない。
車を止める場所も余裕も気持ちもなえてくる。
こうした自然に向かったとき、人間をどうしたらいいのだろうか。
そんな深い思いに落ち込まされる。
やむを得ず、盛岡に向かうしかない。

そんなわけで休憩も取れず、食事もとれずに陸前高田を後にしました。

ところが残念なことに、「盛岡被災地障害者支援センター」はぞれぞれの活動中でお話を聞く時間は6時からと変更になり、その夜帰る予定だった私は、参加できませんでした。  


東京の地で出来る救援を探ろう

救援とは、
この4日間で、出会った方々
       見聞きしたことごと
       感じたものから少しでも被災者の気持ちに寄り添う事ができるのだろうか。

この4日間でご一緒した皆さんの生き様に、触れる事が出来ただろうか。
いろいろな?を胸に、盛岡の駅から新幹線に乗り、まだ雪の残る東北の山々をながめていました。

現地の皆さん、お忙しい中ありがとうございました。 一緒に参加された方々、お世話になりました。

(救援本部東京事務局八王子支部 高木)